それからのブンとフン(2013年10月8日(火)マチネ@天王洲アイル銀河劇場)

ここ二年余り舞台から足が遠ざかっていたが、久々にこまつ座の芝居を観に行った。

『ブンとフン』という無類に面白い小説は初版当時に読んでいて、つぎつぎ繰り出されるダジャレや調子のいい歌(音楽はないけれど、読んでいるだけでリズムが浮かんで来るような)、奇想天外の展開が楽しくて、何度も繰り返し読んだものだ。
それがテアトル・エコーで舞台化されて、でもその後再演されることはなくて、私の中ではいわば憧れの夢の舞台のひとつだったのだ。

あちこちで少しずつ電車が遅れて開演後に入場。天王洲アイルは遠い。
フン先生の前にオリジナルブンが登場して、あのブンとフンのテーマが始まるあたりだ。
♪どこにでもいるブン
 誰にでもなるブン
いかにも宇野誠一郎氏らしい、シンプルなのに心浮き立つメロディーは、実は宇野作品集のCDですでに御馴染みだ。それを耳にした途端、ああ、井上ひさし宇野誠一郎ももういないのだ、あの人たちの新作を見たり聴いたりすることはないのだという思いが痛切にわき上がって来て、自分でも驚いたことに涙が溢れてしまった。
更に白いミニドレスにオレンジ色のアフロヘアのかつら、羽付き扇を揺らす小池栄子が、何故か平井道子さんを彷彿とさせるのだった。

舞台の前半はほぼ小説に則って進む。
フン先生が書いた「不可能なことは無い、四次元世界の大泥棒」の設定通りに、本の中から飛び出してきて何でも盗んでしまうブン。小説で読んだ頃、この展開が面白くて面白くて何度読んでも吹き出してしまい、決して電車の中では読めない本のひとつだった。
しかし初めて見る舞台ではあるが、すでに知っているギャグ。しかも40年前のものだから、ある意味切れ味がダサい。テンポが悪い。初期の井上ひさしの荒っぽさ、どうしても入れたい露悪趣味が、笑える方に振れるか引いてしまう方に振れるか、そのバランスは微妙だ。
客席の反応もまばらで、内心おろおろと、ここは本当に面白かったんですよ、抱腹絶倒のたたみかける展開だったんですよと言い訳したくなってくるが、何と言えばいいのか、子供の頃の私が小説で味わい、文章からイメージした面白さ、40年前の先端だった面白さは、おそらく取り戻すべくも無い。そしておそらく、演出はそんなことは百も承知で、下手にいじらずにそのまま出して来ている。ではなく、著作権が厳然として生きている井上ひさしの戯曲は、勝手なアレンジが許されないのか。

だからと言って、舞台がつまらない訳では勿論ない。
座長・市村正親を筆頭に、俳優たちの動きのよさ、台詞の聴き取りやすさ、とても複雑なのに滑らかにかつスピーディーに転換する舞台、そして朴勝哲の生ピアノ。
朴さんはこまつ座公演ではすっかり御馴染みのピアニストで、彼が下手側に置かれた小さめのグランドピアノの前に座しているだけで安心して観ていられる気がしてくる。

さて、初めは不可能なことがない自分たちの能力に酔いしれ、シマウマの縞だのテムズ川の水だの、常識外れとはいえ他愛無いものを盗んで嬉しがっていたブンたちが、やがて物事を考え、もっと盗みがいのあるもの、権力や記憶などに眼を向けるようになってくる。
世界的ベストセラーになり、出版された国と冊数の分だけ増えたブンたちと常識を重んじる警察長官の対立ははっきりと二極化し、翻訳の違いが生む差異でブンたちも一枚岩ではなくなって四分五裂し、その狭間で生原稿から生まれたオリジナルブンやフン先生は翻弄される。そう、この戯曲が書かれていた当時は米ソ冷戦のただ中であり、安保闘争が終焉に向かう時代なのだ。
主張がぶつかり合うものの能力値は全く対等なブンたちは相対することで硬直してしまい、次々に動きをとめてゆく。
残ったのはオリジナルブン対ト連ブンと丹国ブンの3人。光速の四分の三のスピードで逃げ回り追いかけ回る、その差は決して縮まらない。
常識が大事だった筈の警察長官は非常識にもキュートな悪魔を味方に呼び出し、ブンたちの抹殺を計る。
フン先生はブンに対する人質として地下深くとらわれてしまう。
最後、俺の小説が受け入れられてたまるかとうそぶき、売れないことを矜持としていたフン先生が、何もない牢獄でも書き続ける決意をし、白い壁に向かって指先の血を使って文章を記し始めるという重いシーンで舞台は終わる。

おそらくは38年前のエコーの舞台でも、ここは重く暗かったことだろう。初演時の観客がどういうい気持ちでこのシーンを見たにせよ、今、この舞台を見る私たちは、劇作家がこの初期の戯曲発表の後に歩んで来た道を知っている。
それが、今、この作品を再演することに意味を与えるのではないかと考える。
劇作家の没後3年、過去を振り返るにはちょうどいい時期だ。没後1年では落ち着かないし、5年、10年と経てばどこかに距離が生まれてしまう。観客がまだ作家の存在を近いものとして感じ取れる今、初演の時に作家の分身ともいえるフン先生が示した決意と覚悟に改めて思いを向ける。これはそういう舞台だったのかも知れない。


さて、何と言っても特筆したいのは栗山演出と宇野メロディーだ。
とても緻密でありながら、演出の色を感じさせない栗山民也は、透明な極彩色を思わせる。
そして冒頭でも書いたけれど、昔の音源も使っているらしい宇野誠一郎の劇伴は何ともいえず心を躍らせる。五月舎の制作で初めて井上芝居を観た頃から、いや、チロリン村やひょうたん島の頃からの馴染みで、数あるアニメやCMも含めて、宇野誠一郎の音楽に育てられた部分が確実にある世代なもので、この舞台の音楽は本当に胸に染みた。場面により、現在の作曲家の補作あり。

フン先生を演じる市村正親の軽さと存在の深さが、劇の要になっている。
意外と言っては失礼だが、小池栄子が良かった。
姿が良く、声がいい。舞台の上で栄える華がある。変な言い方だが、ちゃんとした女優さんなのだと改めて思う。

井上作品には数本出ている山西惇、久保酎吉の手堅さ。
新感線くささを封じながらも個性を際立たせる橋本じゅん
身長の低さ、身体の動きの良さを生かして軽やかに演じ分けてゆくさとうこうじ。
動きのよさと歌唱力、声量が圧倒的な新妻聖子
ネコの姿態、長官秘書が印象に残った飯野めぐみ
ひとりずつ名前を挙げてゆくとキンパチみたいになっちゃうからやめるけど、俳優陣はみんな良く、いいアンサンブルを生み出していた。
そして舞台上のもう一人、ピアノの朴勝哲も大切な登場人物だった。


このマチネでは、終演後にアフタートークがあってそれも残って聴いて来たけれど、長くなるので一旦アップする。