イーハトーボの劇列車

14年振りの再演。
木村光一さんが退き、井上ひさしさんが亡くなり、宇野誠一郎さんもこの世を去られて以降、初めての上演になる。

初めに書いてしまうが、私は井上戯曲を多分三分の一くらい観ている(回数じゃなくて本数として)。その中でもこの『イーハトーボの劇列車』は、スペシャル付きで好きな作品なのだ。
初演の矢崎滋の演技は今もって忘れ難いし、最後に上演された村田雄浩のバージョンは、これこそ井上ひさしの描きたかった賢治像に違いないと思わせる素晴らしさだった。
脳内ではそれぞれの上演のいいとこ取りで極私的完全版が上演できるくらいに、逆に言えば先入観だらけで、観に行った今回の舞台なのだ。だから多少、評価は辛くなるのかも知れない。

ということを踏まえて、全体を通じて感じたのは「無理をしている」感だった。
何がどう「無理をしている」かと言えば、演出家の鵜山仁が、木村版イーハトーボのイメージから脱却すべく、小細工に走ってしまったのではないか、ということだ。
楕円に傾いだ回り舞台、空を飛ぶ背の高い車掌、必要以上にコミカル路線に走った山男と鉄砲撃ち。どれも必然からではなく、木村版との差別化を目的とした細工に思える。そして井上芳雄の軽みが掘り下げの浅さにつながり、賢治の葛藤や屈折した心理のちりばめられた台詞がいっこうに伝わって来なかった憾みだ。

再度断っておくが、こちらは先入観満載で観ている。
ここでこの台詞、東北人賢治がなんども上京を繰り返し、その都度故郷を飛び出す使命感、父の影響から離れようとする自負心、首都と故郷を往復する中で培う自己肯定と裏返しの絶望、そして到達する諦観。それらを表現するシーンが重なって重なって、井上ひさしの賢治が立体化されてゆくのを観たい、という先入観の塊だ。
だから、それらがことごとく肩すかしを食らうことの気持ちの悪さ、消化不良感が最後まで尾を引いたことは否めない。

かといって舞台としてつまらなかったかと言えばそんなこともなく、普通にきちんと仕上がっていたと思う。
音楽は、宇野誠一郎の作曲をベースに、荻野清子がキーボード主体の生演奏と効果音で、芝居に溶け込んだ音を作っていた。こういう、演奏家が演奏者の立ち位置で芝居にかかわるスタイルはこまつ座の音楽劇の大きな特徴を成しており、今回の扱いも悪くなかった。できることなら、俳優陣も音作りに関われた方が、世界が広がったかなと思う。